なかなかスムーズにはいかないものだと思います。
順調に進んでいるかと思えば、
体調がダウンしたり
心を揺れる出来事が起きたり
心をSTOPさせるような人や声が目の前にやってきたり
反発心、反抗心、拒絶感が湧いてきたり・・・
でも、
全てが自分にとって必要な一部だと考えたなら
必ず、それらの裏側に光が隠れているとすれば
反発とは、はずむ力。
ブロックは、躍進へのステップ。
しっかり休んで、たくさん眠って
自分とつながって
繋がる方向を間違えず
必ず光のあるほうにつながって
必要なレッスンが終わったら
解除法を習得したら
それらも大事な力となり
次の新しい扉が開くのだと
確かに、思えるのです。
8ページ目 ブログ
不安や猜疑心・・・
いろいろなものが浮かび上がってくることもありますが、
それらは、リアルではありません。
記憶であったり、思考が作り出すイメージであったりします。
そんなときは、呼吸に集中してみましょう。
いつも、講座前やカウンセリング前でおこなっているように。
その苦しいイメージを
思い出しては忘れ、
すくい上げては手放していく。
光に守られ、大地につながっていると
イメージしながら。
好きな音楽や心地よいBGMを聴きながらすると、
より良いかと思います。
呼吸に集中すると、今ここに、戻ってくることができます。
作り出されてしまうマイナスのイメージの洞穴に
入り込んでいることに気づき、
その穴を掘り進めていくことをやめて、
今ここの、光の中に出てみましょう。
どうしても、
そのイメージに苦しむとき、
一人では難しい時は
講座やカウンセリング、セラピー、グループワークにお越しくださいね。
一年前のワーク中、
差し出された母親からの手に、
「いまさら・・・」
「絶対無理です」
と、頑なに背を向けていたKさん(仮名)。
あの時は、全く動きそうになかった心。
子どもの頃、
手をつないでほしかったのに、
振りほどかれた手。
親からすると、
傷つけるつもりなどなかったとしても
子どもの心には深い痛みとなって
残り続けます。
こういったことは、
どの親子でも、度々起こります。
子どもの愛情表現が妨げられたとき、
Kさんの場合、手を振りほどかれたときに
ビクッとして釘付けとなり、
筋肉に宿ってしまった記憶から、
誤った身構えを習慣化することによって、
エネルギーの流れは
遮られてしまうようです。
そこを解いていくには、
もう一度、その時点からの
歩みが重要ですが、
決して受け身ではなく
カタチだけでもなく
心を一致させてそこに辿り着くには、
その人にとっての必要なプロセスがあると
感じています。
あれから一年のプロセスを経て、
その一歩の歩みが
ふいに訪れたのは、
個人セラピーや
講座、コンステレーションを経て、
振り返り勉強会を経て、
講座時のプチワーク中のこと。
テーマにしていたわけでもなく、
意図したわけでもないのに、
必要なことは
ベストなタイミングで起きてくるのでしょう。
母親から差し出された手に、ついに自ら歩み寄り
泣いて泣いて、溶けていく・・
「予想もしていなかった展開で・・・」
と、Kさん自身、驚いている様子。
これまでの積み重ねが水面下で後押しするように、
踏み出すことのできた一歩は、
たったの一歩ですが、
本当に大きなかけがえのない一歩。
変容は誰にでも可能ですが、
歩み続けられる人はごくわずかだからこそ、
「奇跡」のように見えるのかもしれません。
実家で迎えた2024年元旦の朝、
起きると、母の第一声は、
「蚊が飛んでて、眠れなくてやになっちゃった。
この時期に蚊がいるほど暖かいなんて
地震がいらんかしゃん(訳:起きないかしら)と
心配になるよね」
その夕方に、能登半島地震。
夫と娘と愛知のショッピングモールの3階にいた私は、
震度4の揺れを体験していました。
娘が母に、
「なんで暖かいと地震がくるん?」
と聞くと、
「わからんけど、昔からそう言われているからね」
きっと、その昔とは、
1945年三河地震の頃でしょう。
三河湾を震源とする震度7相当の直下型地震で、
37日前に発生した東南海地震とともに2306人が亡くなられており、
祖母の娘であり、父の姉である、清子さんも
箪笥の下敷きになって亡くなったと、
祖母から何度も聞いています。
それが1月だったのです。
被災された皆様の過酷な状況を思うと
言葉もありませんし、
今自分にできることをするしかありません。
そして、三河地震のように、
繰り返されないことを
祈るばかりです。
飛行機事故に北九州市鳥町の火災。
2024年の悲しい幕開けに、
被災地の皆様はもちろん、
他の地域の方々も、
心が揺れている人が多いように思います。
皆さん、大丈夫でしょうか。
三河地震は、戦時下だったため秘密にされ、
支援も受けられなかったようですが、
それでも祖父母や父たちは
裏の空き地で茣蓙を敷いて
なんとか生き抜いたのだと
父が生前教えてくれました。
そして、その空き地が、その後田んぼとなり、
春には蓮華が植えられ、
幼い私はそこで、遊んでいました。
小さな草花にも、私たちにも、
不屈の精神が流れている気がしています。
その精神性を握りしめて、
2024年を進んでまいります。
本年も何卒よろしくお願い致します。
「年とったら枯れていくっていうのは思い込みで
本当は、みずみずしくなっていくらしいよ」
と、出張帰りの夫が、道中読んできた本に書いてあったことを
教えてくれました。教養についての本らしいです。
その根拠については、まだ読んでいないのでわかりませんが
(時間でき次第読みます!)
本来はそうなんだろうなあと、なんとなく感覚的に
思ったのです。
コンステレーションの場にいさせてもらうと、
見たくないものも、見えてきます。
人は、こんなにも、見たくないものについては
上手に回避して、無意識に目をそらせることができるのだと
身を持って体感します。
それは、防御の力です。
自分の心を守るためです。
ただ、自分の心に強さが生まれ、
器ができたときに、見ることができるようになるのでしょう。
逆もあると思います。
都合の悪いことも、避けたいことも、
ありのままを見ることで、認めることで、
強さというか、重みが生まれ、
どっしりと自分の足で立ち、責任を持って
自分の意志で歩んでいくでしょう。
同時に、自分のものでない感覚を、どれほど背負ってきたか、
その背負ったものを分離でき、荷をおろすことができるようになると、
小さくなっていける自分を体感します。
どれだけ、全身に不要な力を入れて、社会や親や親族と闘ってきたのか。
どれだけ、出過ぎた真似をしてきたのか。
どれだけ、絶望を繰り返してきたのか。
そういうものが、自分の身体から、鱗がはがれるように
落とせていくと、
小さな小さな自分サイズの自分が現れて、
それは、みずみずしい魂のように、感じるのです。
ただただ、自分で
ただただ、シンプルで
ただただ、お父さんとお母さんの子どもで
ただただ、夫のパートナーで、娘と息子の母で・・・
進むたびに、みずみずしくなっていけたらいいなと、
肌は仕方ないとしても
魂は、そうであるといいなと思うのです。
何より、課題を下の世代に先送りしない、
自分のことは自分でひきうけるために、
見られていないことを見ていく必要性を感じるのです。
コンステレーションの振り返りの日々から
大きなギフトを頂いています。
振り返り勉強会は、23日(土)も開催しますので、
興味のある方はご参加ください。
北九州ライターズネットワークでも
一般の人向けに記事を書きました。
こちらもよろしければ、ご訪問ください。
北九州ライターズネットワーク